子どもが自ら遊びを創り出すシンプルなおもちゃを
飯能には世界に誇るトイクリエーターがいる。野出 正和(のでまさかず)さんだ。トイクリエーターとは、ひと言で表すと「おもちゃ職人」のこと。野出さんが創り出す温もりを感じる木のおもちゃは小さくシンプルだが細部まで綿密に設計され尽くした、洗練されたデザインが特徴だ。
シンプルがゆえに一見すると大人には遊び方がわかりづらい。けれども、まず考えるよりも先におもちゃに触れることから始める子どもたちは、触っているうちに自然と遊び方をひらめき自分なりの楽しみを見つけていく。「おもちゃに遊ばれることなく、自ら遊びを創り出して発想力や知恵を育むことが子どもにとって大切なんです」と野出さんは語ってくれた。
野出さんの代表的なおもちゃには「Kururin」「Ninja」「barrel」などがある。しかし、ここではあえて遊び方を説明せずにおきたい。大人のあなたにもぜひ自分で遊びを創り出して欲しいからだ。
好きなことをして楽しく生きる姿を子どもに見せたい
野出さん自身も工務店を営んでいた父に「受け身のおもちゃで遊んではダメだ」と言われて育った。父の影響もあって、工作が大好きだった少年時代。子どもが好きな野出さんは、保育の専門学校に進学した。しかし、入学した矢先に父が突然この世を去ってしまう。父には借金があった。家族を支えるため、野出さんは保育の道を諦めて就職することになった。昼夜問わず必死に働いた。
その後、ご縁があって医療系の会社に転職。さらには働きぶりが評価され、医療コンサルティングとしてヘッドハンティングの話が舞い込んできた。24歳、バブルの時代だ。いきなり年収は800万円に上がり、子会社の社長や本社の部長として大抜擢された。26歳で結婚。独立して仲間と立ち上げた会社は順調だった。
28歳のときに長男が生まれる。ここでふと野出さんは立ち止まった。お子さんが生まれたことをきっかけに「いい子育てって何だろう?」と問いが生まれたのだ。会社の経営は順調だが、自分の好きなこと・本当にやりたいことではなかった。「子どもには親が楽しく生きてる姿を見せよう」そう決心した野出さんは人生の路線を乗り換え、感じるがままに行き先を変えた。
それは、練馬のアパートの1室から始まった。木のおもちゃ職人だ。”子どものおもちゃを創ることによって自分が真っ白く純粋な人間になりたい”という想いからアトリエには「無垢工房」と名前を付けた。ホームセンターで工具を買って、クルマのおもちゃを作る日々。医療コンサルタントとして駆け回り会社経営まで経験してきたが、おもちゃの作り方・売り方はもちろん、木の種類さえ全くわからなかった。
2年間、売り上げはゼロ。それでも仲間の手助けや周囲のサポートもあり、おもちゃのクルマは少しずつ売れるようになっていった。いよいよアパートの6畳一間では限界になり、東京に近く自然が豊かで創作に集中できるという理由で飯能に移り住むことに。庭にプレハブの工房を建て、おもちゃを創りつづけた。
おもちゃを創る”子どもの心”が大人の心をときめかせる
飯能に移住してからの野出さんの活躍は目まぐるしい。ドイツの国際玩具展では、7作品がヨーロッパの優良玩具「Spiel gut(シュピルグート)」に認定された。継続的に7つも受賞したのは日本人で野出さんだけだ。その後、当時お茶の間で大人気だったテレビ番組「TVチャンピオン 進め!コロコロからくり装置王選手権」で優勝。
現在でもテレビ番組「世界の果てまでイッテQ」でピタゴラスイッチを制作するなど、メディアにも引っ張りだこだ。飯能市街にあるアトリエをベースにおもちゃのプロデュースや講演、メディア出演などさらに活躍の幅を広げている。
そんな父の背中を見て育った長男が数年前に野出さんをサポートするおもちゃ企業に入社した。担当はもちろん父である野出さんのおもちゃだ。父としてこんなにうれしいことはないだろう。今では親子二人三脚でおもちゃを生み出している。
野出さんにとってアイディアとは自然に降りてくるもの。アイディアを生み出すために考え、絞り出すことはしない。彼の発想の源は、”大人にならないこと”。好奇心を持ちつづけ、自分がまだ知らない新しいものを素直に受け入れること。人と違った行動をすることによって、心のポケットにたくさんの情報が入っては出ていく。
誰もが持っていた”子どもの心”。いつからあの透きとおったやわらかい心を失ってしまったのだろう。いや、もしかしたら忘れているだけなのかもしれない。野出さんのおもちゃに触れると魔法にかけられたように、すべてを受け入れ感じるままに世界を見ていたあの頃の心がよみがえってくる。大人も子どもの関係なく、彼のおもちゃは自然と人の心をときめかせてしまう魔法のおもちゃなのだ。
text : aya nakazato
photo : kohei akai